結局―――我聞は武文を止めることは出来なかった。
止めるべきではない、彼と陽菜の為にも止めてはいけないのだと・・・・・・理解せざるを得なかった。
そして、武文は必ずここへ、陽菜の父親として帰ってくることを約束した。
その約束は、きっと守られる。
陽菜をして約束事に厳しいと言われる彼が、そう言い切ったのだ、守られないはずが無い。

我聞も武文に約束した。
彼が戻るまで、陽菜を支えると。
それは、武文の願いでもあったが、それ以上に我聞の望むことでもあった。
彼女の支えになりたい、支えあいたいと、いつも思っていた。
だが・・・
武文の旅立ちを受け入れてしまった自分は、彼と・・・父と再び別れねばならない彼女を、
支えることができるのだろうか。
彼の分まで、彼女の心を満たすことは出来るのだろうか。

そんな苦悩は、帰宅しても床に就いても、日が変わっても、我聞を苛み続けた。

 

そして翌朝。
睡眠不足気味なところをいつもの様に珠に叩き起こされて、
いつも通りに早朝トレーニングへと出かける。
悩みは全く解決されてはいないが、それでも身体を動かしたことで多少は気が晴れて、
当面の腹を決めて帰宅した我聞に果歩から声がかかる。

「おかえりお兄ちゃん、陽菜さんから電話あったわよー」
「國生さんから?」
「うん、今朝は用があって先に学校行きますって」
「そうか・・・わかった、サンキュ」

表情にこそ出さなかったが、我聞としてはいきなり出鼻を挫かれた気分になる。
とにかく当たって砕けろの精神で、まずは会いたいと思っていたから。
会ったところで何を言えばいいかは分からないが、それでも会いたかった。
武文の語った重すぎる事実・・・陽菜も、恐らく部屋で聞いたことだろう。
それを、彼女の細い身体ひとつで背負わせるのは、辛かったから。

「お兄ちゃん! ご飯出来てるわよ!」
「おう、わかった、今行く!」
(・・・まあ、学校で会えるか)

我聞の胸中になど当然ながらおかまいなしで、工具楽家の朝は普段通りである。
昨晩、我聞が帰宅した時には既に、我也が旅立ちについて果歩達に話を終えていたのだが、
家族の反応は我聞が予想したよりは、過敏なものではなかったらしい。
毎週必ず連絡を入れて所在地と行き先を明かしておくとか、
自分と武文と組んだら危険など有り得ないとか、
お土産がどうとか、
兎にも角にも三人を納得させてしまったらしい。
もっとも、果歩達が納得出来た一番の理由は、
目的をはっきりさせて、きちんと断って出かけるから、というところだろう。
我聞自身にしても、家族や会社をこれからも支えて行かねばならないという気負いのせいは有るにせよ、
陽菜と同じような状況でこれだけ落ち着いている自分を顧みて、
なんだかんだで父親のことを信頼しているのだな、とつくづく思う。

(俺もそれくらい信頼されるようにならなくちゃな・・・)

家族や社員を安心させる為にも、大切な人を支える為にも。

食事を終えて、一人学校への道を歩く。
最近はいつも、隣を歩く陽菜が父親のことを楽しそうに話していたものだから、
今日はやけに味気無い道のりだ。

「おーっす我聞! ・・・ってあれ、國生さんはどうした!」
「おっす! いや、どうしたって・・・今日は用事があって先に学校に行ってるらしい」

さも残念そうに落胆する佐々木を天野達と笑いながら、
なんとなく、今の陽菜はこの雰囲気は避けたがるかもしれないな、と思う。
あくまで我聞の想像でしか無いが、
今の陽菜は、この明るいノリは辛いんじゃないかと、思えた。

そんな我聞の考えを裏付けるかのように、
陽菜は昼休みにも我聞のクラスには現れなかった。

「おい我聞、なんで朝だけじゃなくて昼休みまで國生さんは来ないんだ!?
 さてはお前、またなにかやらかしたな!」
「また、ってなんだ! 國生さんにだって用事くらいあるだろ!」

思い当たる節はあるが、それがあくまで陽菜の個人的な事情である以上、
我聞の口から説明するわけには行かない。

「まぁ、あんまり人のことに口出しするのも難だが・・・問題があるなら早めに解決しとけよ」
「ああ・・・でもホント、そういうんじゃないんだ。
 それより、昨日の仕事が終わってないから、今日も部活はパスするわ」

佐々木や中村も彼らなりに陽菜や自分のことを心配してくれているのだとは思うが、
今回ばかりは、自分ひとりで背負わねばならないと決めていた。

陽菜に会いたいのなら、自分から隣のクラスへ彼女を訪ねればよい。
それが正論だし、事実休み時間の度にそうしようとも思ったのだが、
いつも通りに姿を表さなかったということは、やはり会いたくないのかもしれない、
そこにこちらから押しかけていいものだろうか悩むところだし、
そもそも話をするなら二人きりで会わないと意味が無い。
・・・等と思い悩んでいる間に、気がついたら放課後になっていた。

(仕方ないな・・・流石に仕事は休まないだろうし、仕事中の様子を見て、終わったら声をかけてみよう)

昨日と同様、部活へ向かう友人と途中で別れ、職員室へ体育倉庫の鍵を借りに行くが、
今日は既に貸し出し中になっていた。
我聞の仕事が進んでいなかったので、別の委員が代わりにやり始めてしまったのかもしれない。
寒い中の作業なので、申し訳ないと思って急いで体育倉庫へ向かい、
“備品チェック中、使用不可” の札が下げてある扉を開くと・・・

「あ、すみません、今は・・・あら、社長でしたか、お疲れ様です」
「・・・國生さん!?」

そこにいたのは、バインダー片手に備品チェックを行っている國生陽菜だった。

 

その、あまりにも不意の遭遇に、我聞は思わず立ち尽くしてしまう。

「・・・社長? あの、風が入るので、扉を閉めて頂けると有難いのですが・・・」
「え、あ、ああ! すまん國生さん!」

言われるままに後ろ手に扉を閉めて、それから思い出したように

「・・・って! そうだ國生さん! なんで君がこの仕事を!? だいたい・・・」

大丈夫なのか、と彼女の表情を覗う。
灯りをつけても薄暗い倉庫では、離れていると表情の細かなところまでは読み取れないが、
声にしろ顔にしろ、思っていたよりはずっと・・・普段どおりだった。

「はい、昨日の作業の進捗具合を見るに、社長お一人では本日一杯かけても終了しそうに無いと判断しまして、
 勝手ながら始めさせて頂きました」
「むぅ・・・まあ、それはその通りなんだが・・・」

このあたりのソツの無さはいかにも相変わらずの陽菜らしさではあるのだが、
やっぱり、違和感は拭えない。

「と、とにかく、俺も手伝うよ・・・ってか、そもそも俺が引き受けちゃった仕事だし!」
「それなんですが・・・」

陽菜は微妙な笑みを浮かべて、我聞の目の前にバインダーを差し出す。
そこに挟まれたチェック表には・・・

「え・・・お、終わってる・・・? 國生さん、まさか・・・」

いくら陽菜の手際がずば抜けて良いとはいえ、授業終了から今までの僅かな時間で終えられる作業量ではない。
つまり・・・

「朝、先に学校に行ったってのも、昼休みに来なかったのも・・・」
「はい・・・勝手なのは承知していますが、
 今日の放課後は社長に予定を空けて頂きたかったものですから・・・」
「それならそれで言ってくれれば、俺も一緒に働いたのに!」
「でも、そうしたら社長は部活に出られてしまうでしょう?」
「いや、でも仕事なら当然そっちを優先・・・」
「仕事じゃありません」

キッパリと言い切ると軽く溜め息を吐いて、
正面から我聞を見据える。
怒っている、と言うほどではないが、じっと我聞の目を見て・・・

「昨日も言ったじゃないですか・・・
 社長と・・・あなたと二人きりになりたいから・・・では、いけませんか?」

昨日、陽菜が同じことを口にした時よりも、
微かに、だけど確かに、深刻な響きがあった。
理由は・・・多分、我聞が予想した通りのものだろう。

「いや・・・俺も丁度、國生さんに話したいことがあったんだ」

二人は昨日のように丸められたマットに並んで座り、
しばらくは互いに無言のままでいた。
話したいことがある―――とは言ったものの、遭遇の仕方があまりに不意だったものだから、
どう切り出すべきか考えてしまう。
が、もともと考えることが得意な我聞ではない。
結局そのまま・・・

「おっちゃんが旅立つと、寂しくなるな・・・」
「・・・はい・・・でも、平気です・・・これまでの5年間が戻ってくるだけですから」

平気、と言うには、あまりにも平坦な、起伏の無い声で話す。
まるで、用意していた台詞を棒読みしているかのように。

「國生さん・・・」
「大丈夫です、すぐに慣れますから。
 それに、先代だって同行されるのですから、社長だって状況は同じでしょう?」
「ああ・・・だけど、おっちゃんは・・・」
「むしろ、父の背負った理由に先代まで付き合わせる形になってしまったようで・・・
 社長や果歩さん達には、本当に申し訳ありません」
「い、いや! そこは國生さんが謝るところじゃない!
 それに、果歩達もちゃんと納得してくれてるみたいだからな」

だからうちの方は別に心配ないんだ、と言葉を続けながら、陽菜の表情を見る。
陽菜は・・・少しずつ、表情が薄れてきているかのような・・・

「・・・私の方も、心配して頂く必要はありません。 父の理由は十分に納得の行くものでしたから」
「納得って・・・確かにおっちゃんの理由はわかったけど、でもそれで國生さんは・・・
 その、理屈じゃなくて、気持ちで・・・本当に納得できたのか?」

ぴく、と陽菜の肩が揺れる。
表情に一瞬だけ感情の色が宿り、すぐに消える。

「納得・・・出来ても出来なくても、父は旅立ちます・・・それが父の望みです。
 社長も聞かれたはずです・・・父の旅立つ、本当の理由を」
「ああ、聞いた・・・けど・・・すまん、俺も止められなかったけど・・・」
「社長が謝る必要はありません・・・父には、必要なことなんです。
 ですから・・・仕方のないことですから・・・」

そう言って陽菜は昨晩のように、無理に作り上げたような痛々しい笑みを浮かべて・・・

「・・・そんな顔、しないで下さい・・・」

言われて、初めて気付く。
俺はそんな酷い顔をしていたのか・・・
父の為に己を殺して健気に振る舞う目の前の陽菜に、
何もしてやれない自分への無力感に苛まれていた我聞は、気付かぬうちにその顔を歪めていた。

「悪い・・・」
「いえ、私こそ、申し訳ありません・・・社長にまでご心配をおかけして・・・」

陽菜はあくまで笑顔のまま。
・・・昨夜のような・・・見てて辛くなるような、笑顔。

「・・・社長?」

陽菜に余計な心配をさせる訳にはいかない、とはわかっているのだが、
そんな痛々しい笑顔を前にして、陽菜のように笑うことはできない。

「國生さんこそ・・・」
「はい・・・?」
「そんな・・・無理に笑おうとしないでくれ」

ぴく、と陽菜の身体が小さく揺れる。

「そんな、別に無理は・・・」
「おっちゃんに心配かけたくない、ってのはわかるよ・・・
 でも・・・俺の前でまで・・・そんなに無理すること無いじゃないか」

陽菜の口が何か言おうとして、しかし何も言葉を紡げない。
作っていた笑顔が、少しずつ綻んでゆく。

「朝から俺の仕事を片付けてまで二人になろうとしたのは、
 俺にそんな強がりを見せる為だった訳じゃないだろう・・・?」
「それは・・・」
「あの時・・・弱音を言ってもいいって、支えあうのが家族だって・・・言ってくれたのは君じゃないか。
 ・・・國生さんがおっちゃんのことを想ってそうしてるのはわかるよ。
 そうやって、おっちゃんが國生さんのことを気にせずに旅立てるようにしてるのは、俺でもわかる・・・
 だけど、俺と國生さんだって家族みたいなものだろう!?
 俺の前でくらい、そんな風に辛そうに笑わないで、言いたいこと言ったっていいじゃないか!
 俺に君を支えさせてくれたっていいじゃないか!」

それは、陽菜を支えたいという、自分の一方的なエゴなのかもしれないとも、思う。
陽菜は我聞にも、誰にも甘えたくないと心から思っているのかもしれない。
ここへ来たのも、本当に自分の前で“普通である”ことを示したかったのかもしれない。
でも・・・例えエゴでも・・・そんな辛そうな陽菜を、そのままにはしておけなかった。

「下手な励ましくらいしか出来ないかもしれない、
 ただ聞いてあげることしか出来ないかもしれない、けど・・・
 それでも・・・君の辛さを少しでも、俺にも背負わせてくれたって・・・いいじゃないか・・・」

言葉が尽きて、後はただ陽菜を・・・彼女の目を、じっと見つめる。
陽菜の顔からは作り物の笑顔は失われ、
その目は驚いたように見開かれ、
やがて、じわり、と潤み、瞬く間に目尻に雫が溜まり・・・
なにかを堪えるようにきゅっと結んでいた口を、小さく開き・・・

「だって・・・だって・・・一度、辛いって、嫌だって認めてしまったら・・・・・・
 もう、父の前でも、普通に出来ないかもしれないって・・・・・・お父さん、心配させちゃうかもしれないって・・・」

支えてやらないと折れてしまいそうなほどの、震える声。
目尻から一筋、涙が頬を伝って落ちる。

「私がちゃんとしてないと・・・・・・お父さん、安心して旅にでられないかもしれないって!」

言葉にすればするほど心は激しく揺れて、涙と声になって溢れ出す。

「だから・・・・・・だから、わたし・・・・・・お父さんが出発するまで、ちゃんと・・・でも、でも・・・・・・!」

一度溢れてしまった涙は最早とどめることは出来ず、それでも陽菜は我聞から目を背けない。
誰にも助けを求めることが出来なかった、その細い身体に抱え込んでいた辛さ・・・
それを声にして・・・救いを乞うように、涙に濡れた目をまっすぐに向けられて・・・
我聞には、ただ陽菜を抱きしめることしか出来なかった。

陽菜はそのまま我聞の胸に顔を埋め、制服を涙で濡らす。

「う・・・・・・あ・・・あぅ・・・・・・うえぇ、うああぁ・・・・・・!」

洩れる声は、やがてすぐに嗚咽に変わる。
胸の奥の錠は外れ、内に閉じ込めていた感情は奔流となって溢れ出す。
その全てを我聞の胸に出し尽くすまで、陽菜はそこで、涙を流し続けた。

 

やがて・・・静かになって、しばしの間を置いて―――

「ごめんなさい」

顔を我聞の胸に埋めたまま、ぽつりと言った。
とても小さな声だったが―――静まり返った狭い倉庫では、意思を伝えるには充分だった。

「気にしないで・・・俺も、偉そうな事言っておいて、
 結局何もしてあげられないことには、変わりないからな・・・俺の方こそ、すまん」
「いえ・・・すこし・・・楽になれました」
「そうか・・・なら、よかった・・・」

そう言って少し、陽菜を抱く腕に力を込める。
応えるように陽菜は掴んでいた我聞の制服の裾を放すと、その手を彼の背に回して、きゅ・・・と、抱き返す。
そのまま二人はしばしの間、互いの身体を預け合った。

「・・・お父さんは・・・父は、数日前から夜中にうなされていたんです」

抱き合ったまま、我聞の胸に顔を埋めたまま、陽菜は小声で話し始める。

「“すまない”、“許してくれ”って・・・
 本当に苦しそうに・・・辛そうに・・・うわ言のように呟くんです。
 ですから、なんとなく父が本当の意味で真芝から帰って来てはいないんじゃないかとは、感じていたんです。
 それで、社長に聞いて貰いたくてここに来たはずだったのですが・・・
 いざ話そうとすると、やっぱり不安になってしまって・・・」
「そうか・・・やっぱり、なんとなく気付いてはいたんだな・・・」
「はい・・・」

ここ最近、毎朝の登校の度に父親のことを楽しそうに話していたのは、
その不安を忘れるためだったのかもしれない。

「ですから昨日、事務所で先代と父の話を聞いた後、部屋で、父を苛む悪夢のことを聞かされて・・・
 父にとって、それに私にとっても、5年前のように本当の父と娘として暮らすには、
 必要なことだとはちゃんと理解しました・・・」

我聞の腕の中で、陽菜の肩が小刻みに震える。

「でも・・・やっぱり・・・・・・辛いです・・・・・・折角、帰って来てくれたのに・・・・・・離れたくないです・・・
 もしも、また行方不明になってしまったら・・・・・・二度と会えなくなってしまったらって・・・
 そんな嫌な考えが消えてくれなくて・・・」

時折、嗚咽を交えながら、涙声でゆっくり、ゆっくりと、陽菜はその胸のうちを言葉にする。
自分を抱いてくれる人の胸の中に直接言葉を送ることで、
一人で抱えるには辛い思いも、その人が一緒に支えてくれるかもしれないから。

「國生さん・・・」

儚げな、壊れそうな・・・そんな陽菜の心の内に触れて、我聞はただ、彼女を守りたいと、
武文との約束があろうとなかろうと、支えてやりたいと、改めて強く思う。
具体的に何が出来るかなんてわからないけど、それでも・・・
出来ることなら、何でもしてやろうと、思う。

そして、とりあえず今は腕の中ですすり泣く想い人をすこしでも慰めてあげられれば―――と思ったのだろうか。
半ば無意識に彼女の頭に触れて、その黒髪を優しく撫でていた。
陽菜は何も言わず、嫌がる素振も見せず、ただ我聞の行為を、受け入れた。
やがて―――

「・・・父も、そうやって私の頭を撫でてくれたことがありました」
「そうか・・・」

陽菜の声は相変わらず小さかったが、心なしか元気を取り戻したように聞こえた。
今の我聞がしてあげられることはこれくらいしかないが、
それでも、少しでも彼女が元気を取り戻してくれたなら、それほど嬉しいことはない。

「こんなことをしても、俺じゃおっちゃんの代わりにはならないかも知れないけど・・・」

それでも、彼女が少しでも寂しいと、辛いと思った時には、いつでも傍にいてあげたいと思う。
彼女が自分を支えてくれたように、自分も彼女を支えてあげたい。

「おっちゃんが帰ってくるまで・・・
 いや、帰ってきても、それから先もずっと・・・俺が君を支えるよ・・・
 親父やおっちゃんに比べたらまだ頼り無いかもしれないけど、それでも、必ず・・・」

静かに、だが強い思いを込めて、腕の中の陽菜に決意を伝える。
陽菜はしばらく何も言わず、やがて小さく・・・だがはっきりと、
はい、と答えた。
そして我聞の胸からゆっくりと顔をあげると、
自分を抱いてくれている、支えてくれると言う男の顔を、真っ直ぐに見上げる。
その目は泣き腫らして真っ赤だったし、笑顔を取り戻せてもいなかったが、それでも・・・
さっきまでの偽りの表情とは違う・・・陽菜の気持ちを映した、素直な表情だった。

「でも、父の代わりに、なんて考えないでください・・・父は父で、社長は社長ですから・・・
 今のままの、いつもの社長がこうして傍にいてくださるなら、
 それだけで私は充分・・・嬉しいですから・・・」
「そうか・・・じゃあ、おっちゃんの分まで、俺が君の傍にいるよ」

陽菜の表情にうっすらと笑みが混じる。
嬉しそうで、恥ずかしそうで、そして少し悪戯っぽく―――

「でも、また一人で抱え込んだりしちゃ、ダメですよ・・・?」
「む! それは今日の國生さんには言われたくないなぁ」

あくまで冗談っぽく、笑いながらそうやりかえす。
陽菜は、今度は表情を崩して楽しそうに笑い、

「大丈夫です。 これからは、ちゃんと二人で抱え込みますから」

そう言って、少し顔を赤らめて・・・黙って我聞を見上げる。

「そうか・・・そうだな・・・」

我聞も同じように顔を赤くして、それ以上は何も言わず陽菜の顔を真っ直ぐに見る。
そのまま、沈黙が狭い倉庫を覆う。
抱き合った互いの鼓動が、強く感じられる。
我聞の顔が僅かずつ近づいているように思えて、
陽菜は目を瞑る。
本当は自分からもっと顔を寄せたかったが、既に目一杯に上を向いてしまっていたから、
あとはただ待つしかなかった。
音もなく、光もなく、ただ愛しい人の鼓動だけを感じ、ふっと顔に息がかかるのを感じ、そして・・・
唇が、触れた。

優しく被せられた柔らかい唇から、温かな想いが流れ込んで来るような・・・
そんな幸せな気持ちが消えないように、二人は微動だにせずに、
ただ相手のことだけを感じ続けた。

 


長いのか、短かったのか・・・多分長かったのだろう、呼吸が辛くなって名残惜しげに唇を離し、
再びお互いを見つめあうと、照れたように顔を赤らめて微笑む。
久しぶりの固い抱擁とキスは、二人の周りを・・・この狭い倉庫を、温かく甘い恋人同士の空気で満たす。
時には陽菜の部屋で、時には我聞の部屋で、そしてごく稀に会社の事務所で・・・
二人を包んでいた空気が、今はこの薄暗く静かな倉庫に濃密に漂いはじめる。

そんな雰囲気の中、何度も“その先”を経験している我聞としては、
身中に湧き上がる欲求を意識しないわけには行かない。
強く抱き合い、キスまでして・・・
身体が腕の中の少女を求めて、抑えがたい疼きを感じている。
だが、仮にもここは学校で、しかもたった今、当の彼女を支えると誓ったばかりなのだ。
本能的な欲求と後ろめたさと生真面目な使命感の間で我聞はしばし悩むが、結局、彼は・・・

「・・・じっとしてるとちょっと冷えるね、昨日のお返しってことでコーヒーでも買ってくるから、
 國生さんはここで待っててよ、すぐ戻るから」

求めれば応じてくれたかもしれない―――とは思いつつも、今は陽菜を大事にしたかった。
冷える倉庫に一人で待たせるのも少し気が引けるが、このまま無理やり押し倒すよりはマシだと思い、
腕を解いて立ち上がる・・・立ち上がろうと、した。
だが・・・

「・・・國生さん?」

陽菜は、我聞の背に回した腕を解こうとしなかった。
むしろ、その腕は抱くというよりしがみつくように強く我聞を締め付け、
キスを交わして照れたような微笑を浮かべていたはずの顔は、瞳は・・・不安の色に染まっていた。

「社長も・・・私を置いて行くんですか・・・?」
「・・・へ?」
「お父さんみたいに・・・先代みたいに、社長も私を、一人にするんですか・・・?」
「ちょ、ちょっと・・・國生さん、なにを・・・」

余りに突然の・・・突飛な発言に、我聞の理解が追いつかない。
ただ、陽菜の目が冗談でなく、本気で恐れている・・・怯えていることだけはわかる

「何、言ってるんだ、別にすぐ戻ってくるし・・・」
「置いて・・・いかないでください・・・今は、一緒に・・・いてください・・・」

まるで、ここで離してしまったら二度と戻って来ないのではないか、
とでも本気で思っているかのように・・・
そんなことある訳が無いが、今の陽菜にとって何が一番必要なのかは理解できた。
胸の中で自分の浅はかさに舌打ちしながら、もう一度陽菜の背に腕を回し、きつく抱き締める。

「すまん、國生さん・・・何処にも行かないから・・・ここにいるから・・・」

また、陽菜のことを第一に考えているつもりで、自分の都合を優先しそうになっていた。
今の陽菜に一番必要なのは、誰かが傍にいてあげること。
傍に居るべき人が居なくなる・・・そこにぽっかりと開く心の隙間を、
例えごまかしであっても、代用品であっても・・・少しでも埋められるように、きつく抱き締めてあげること。
強く抱き締める程、身体の奥底に湧き上がる疼きは抑えがたいものになるが、
それを抑えるのが、彼女の気持ちに気付かなかった自分への罰。

「わたしこそ・・・すみません、社長・・・折角のお気遣いだったのに・・・」
「いや、まあ・・・気にしないで、それにほら、こうしていたらそれはそれで、温かいし」

本当の理由は流石にこの場面で言うに言えず、照れ隠しに“はは”と軽く笑って済ませる。

「はい・・・社長の身体・・・温かい・・・でも・・・」
「ん? どうした?」

逆接で言葉を切って自分を見上げる陽菜の表情が、さっきとまた違っている。
我聞に抱き締められて寂しさや怯えはだいぶ色を潜めたが、
代わりに・・・少し、顔を赤らめて、

「もっと・・・感じたいです・・・」
「へ?」

間の抜けた顔で聞き返す我聞の視線を避けるように、そして勘の悪い彼を少しだけ非難するように、
どん、と強めに彼の胸に頭を押し付けて―――

「もっと・・・社長を・・・あなたを、感じさせてください・・・」
「そ、それは―――」

いくら鈍い我聞といえど、流石に何を求められているかわかる・・・のだが、
自分で懸命に押し留めようとしていたことでもあり、ついその先に進むのを躊躇ってしまう。
そんな我聞に懇願するように、陽菜は言葉を続ける。

「・・・支えてくれるって言って頂けて・・・すごく、嬉しかったです・・・
 もう大丈夫かなって、お父―――父のことも、社長が居てくれれば耐えられるって、思えました・・・
 でも、社長が腕を解いたら、また元に・・・さっきの私に、戻ってしまうかもって、怖くなって・・・
 不安が完全に消えないのはわかります、だから・・・こんなこと、逃避だってわかってます、
 けど、少しの間だけでもいいですから・・・忘れさせてください・・・
 今だけでもいいですから・・・他のこと、考えられないようにしてください・・・
 社長のことしか・・・わからないように・・・してください・・・」

どうやって、とは言わない。
言わなくてもわかる。
自分が望んでいたことでもあったが、それ以上に愛しい少女のために、そうしてあげたいと思った。

だから、己の心の欲するままに、彼女の求めるままに―――
陽菜をマットに押し倒した。







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